伊賀市 吉相印・はんこ(実印、銀行印、認印、会社印、落款印)・ゴム印・仏具(数珠、線香)・御位牌(文字手彫、機械彫)
      文字彫刻のお店・表札、看板彫刻・プレート彫刻・名刺、封筒印刷・サンビー製品・シャチハタ製品

【本店】TEL:0595-21-0663

 私たちが社会生活の中で、人生のはじまり、母親の胎内に生命として宿ったときから、母子手帳の交付、出生、入学、就職、結婚、そうしてついに死亡すれば埋葬許可書など・・・。すこしむずかしく言えば、印鑑とは、自己の権利を主張し、義務を遂行していくあかしであり、自分の名前が彫刻された瞬間から「ものを言う」生命体に変化するわけです。ともすれば、案外無意識に取扱上の慎重さを欠いていることが多いもので、まことに危険です。印鑑には、権威的な性格、芸術的な性格、運命的な性格の三つの性格があります。秦の始皇帝や、日本では、推古帝時代の天皇御璽がつくられて以来の、支配者としての権威を示すために用いられた官公印など。つぎは、芸術性を尊重した落款印その他の雅印など。そして三つ目が、実用印章としての実印、銀行印、認印、仕事印などです。  中国での印の起源は、紀元前三世紀の周末・戦国時代から文書の封に押すための用途が主でした。秦国時代にはじめて国璽(国の実印)ができ、漢の時代には、所有者の身分・地位によって大小が異なり、印材は銅や、銅にメッキをしたものや、鈕に亀やラクダのついたものは高官用、一般にはかまぼこ形のものが多く、六朝という時代になって印肉が発明されました。唐代に入ると、それまでのわりあいに整っていた印章道は乱脈となり新規格の印がさかんになり古法はすたれてしまいました。  清朝時代に入るや、目が覚めたように印の構造は精密で、規模も整理され、ふたたび夜明けがおとずれ、それ以来の伝統が今日までつづいています。  日本での印鑑は聖徳太子が摂政をしていた推古天皇の時代(西暦593〜628年)に伝えられてきました。はじめは唐の影響をかなりうけていましたが、その後日本ふうに工夫し、制度的に確立されたのは、文武天皇の大宝元年(西暦701年)のことでした。大宝令・公式令には、内印、外印、諸司印、諸国印の四種の印が定められました。大化の改新以後、鈕印は朝廷大権の一つとされ、中央政府および諸国の印は、朝廷からさずけられました。この結果、捺印のある文書に権威が生じ、印類そのものも重んじられるようになって奈良時代からは社寺の印、郡、郷印など、準公印がさかんになってきました。この時代には私印は、一般的には認められませんでした。平安時代になりますと、官印の制度がくずれて私文書がさかんになり、花押(かきはんといい、日本的サインの代表、印章が一般の人々のあいだに普及していなかった時代に、文書の真実性を明らかにするために用いた)がどんどん用いられるようになりました。鎌倉時代にはいると、宋、元との交流がさかんになり、とくに禅僧によってもたらされた印によって、印材、形状、字体も変化に富むようになり、私印がさかんになり、朱印、墨印の別がありましたが、大名は朱墨を用いることが多くなりました。  花押がだんだんすたれて、印がこれに代わるようになると、庶民のあいだに、実印、裏印が発達し、とくに江戸時代から印章は一般大衆のあいだに普及した結果、もはや印を持たねば日常生活にもことかくようになり、その必要性と実用性が増大して明治時代に実印の法制化となるわけです。明治3年9月に、一般に苗字が許されて、誰でも姓と名をもって自分を表示することになり、さらに明治6年7月には、「国民相互間の証書には印鑑を用いること」という布告が出て、明治23年2月、法律第17号は、各自に実印を定め、市区町村役場に「印鑑登録」を行い、法律上の公証力をもたせる定めとなり、現在におよんでいます。

印章百科より